[ 第1回 ]「先生からのメッセージ」
 どんな幼稚園を選んでお子さんを入園させたいと思いますか?というアンケートに「園服がかわいい、遊具、玩具がたくさんある、躾をきちんとしてくれる、発表会等が立派で整然としている、保育時間が長い、文字や数を教えてくれる…」などが上位を占めていました。

 ちなみに、小・中学生の保護者の方達の、我が子への願いというと「自分から勉強する子ども、いじめっ子や、いじめられっ子になってもらいたくない、ましてや登校拒否には、絶対なってもらいたくない、思いやりのある人間、嫌なことは“NO”と言える子どもになって欲しい」ということが、最も一致した大きな希望のようでした。

 この両者の親の希望を聞きながら感じたことは、幼稚園時代は、夢の花園の中に入れ、 かわいくて、きれいで、やさしい先生で、行事は華やかで、早く字が書けるように…という、その場だけ親が満足すればよいという希望です。その子どもの将来に責任を感じたら、こんな幼児期でよいのでしょうか。

 クリントン米国大統領の演説の一部に「小学生に銃を持たせないで下さい。十六歳の 少女に妊娠させないで下さい。高校生に麻薬を与えないで…」というものがあるのを読みました。神戸の少年の事件も、私たちの身近に聞く、家庭内暴力や登校拒否…など。突然おこるものではありません。その子どもの生育歴と深くかかわっています。 我が子さえよく育てれば、と思っても、環境の中で強い精神力で乗り越えることは至難です。子どもの将来に責任ある子育てを考えてみた時、にぎにぎしい発表会や園服がかわいい…などだけで過ごさせては、取り返しのつかぬことにならないでしょうか。

 満六歳、卒園までに育てておきたいものは、自主性、意欲、思いやり、この三つと思います。これらが育つためには、生後三〜四年間ぐらいは“甘え”が必要です。(物を与えたり、子どもが求めてもいないのに要求の先取りをするのは甘やかしです。)そして、十分満足して幼稚園という集団に入ることが理想です。
 集団生活の中では、様々な葛藤、自分の思うようにならない体験の毎日となります。親とすると、子どもに失敗して欲しくない、困って欲しくない、スムーズに、ストレートに、嫌な思いもせず歩いて行って欲しい。前に邪魔なものがあれば、あるいは、つまずきそうな石があればどけてしまいたいと考えがちです。しかし、それでは大切な三つは育ちません。そこで出会わせたい体験は“失敗すること”であり、それを乗り越えて達成感をもち、その過程の中でやさしさを受けたり、友情にささえたりして、思いやりが育っていきます。様々なトラブルの中で、“NO”といわなければならない体験にも、度々出会います。

 幼児期は夢の花園ではありません。子どもの一生を築く基盤をつくる時です。どのようなことに配慮したら、その後の小、中、高…そして大人になっても充実した日々となるかを、これから考えて参りましょう。
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[ 第2回 ]「何十年前のコマ回し、体験の大切さ」
 コマ回しに熱中する子どもたち、やはり男の子に多い。毎日コマ以外のことをしないので、「明日からコマを園に持ってこないように...」と話した翌日。
 なんと子どもたちは、木片や発泡スチロール、紙などでコマを作っている。「そんなにコマって面白い?」と聞くと年長児はもちろん、なんと、やっとひもをまけるようになった3才児までが、「すごーく面白い」という。「トオル君だけ2番のマルの中で回せたんだよ」テラスのコンクリートの上に直径3?位の1番のマルから直径50?位のマルまで、16のマルが描かれている。トオル君は今日、2番の直径6?位のマルの中にコマを入れて回せたのだという。ユウヤ君は3時間近くやり続け、とうとうケン玉のお皿の上にコマが入って回り、シンちゃんは、下駄箱の上靴を入れる上段に挑戦して、やっと昨日コマを水平に投げ入れて、回ったのだと、話し始めた子ども達。洗面器やバケツの中、椅子やじゅうたん、すのこの上、砂場の中・・、回っているコマを、ひもでさっとすくって、手のひらの上に乗せてまわしたり、ジャンパーの袖の中、帽子の中、サンダルや箱の中・・・、子どもたちにとっては、毎日がより困難度の高いものへの挑戦だったのだ、面白くて面白くてたまらないのは無理もない。
 何十年も前の、私の失敗の経験である。以後コマ回しが始まると心ゆくまで見守ることにした。

  「ぼく、千回まわす」「ぼくは、五百回」・・などと話しているのを聞いていたケンちゃんは、まだ幼くて千回がどんな数かもちろんわからないが、クラスの友だちや先生がやっているコマ回しを、自分もやり始めた。
 1回まわすとB5の紙に大きく1と記入する、2回、3回、3まで書くと紙の余白はもうない。裏に4・5・6、そして「先生もう一枚紙ちょうだい」、それが3日目、4日目と、少しずつ字が小さくなり、一週間目ぐらいになると、フリーハンドで紙に碁盤の目のように線を引き、数字を書き込んでいく。数字も9までは書けたが、10回をどう書いてよいか、わからない。教わって10を書けたが、11を書く時は、さらりと101と、書いている。そこで11と教えられて、19から20、しかし21は201、ここでも再度数えられて、21をなんとか突破。そして29、30、ケンちゃんは31を少し考えてさっと「31」と書くことが、できた。「やったね!」保育者はこういう場は絶対見逃してはならない、思わず抱き合って感動を伝える。こうして100回、101もクリアー。
 「先生、ぼくもう300回だよ」「えっ!」コマ回しはもちろん、他の運動面でも目立たず、他の友達のするのを見て、後からついて行くタイプのケンちゃんが、500回をこえた時、組中の子ども達から驚きの声が上がった。数字を書きこんでいた紙も2?位の厚さになっていた。ひもを巻く手つきも投げ方も堂に入ったもの、そして800回、始めてから2ヶ月半、とうとうケンちゃんは、1000回のコマを回し続けたのだ。
 この頃のケンちゃんは、広告のチラシなど、目にふれる印刷物の数字を見て「1000」は誰にも教えてもらわずに書けたのです。

 その頃、隣ではカツミ君が縦横20?角の厚い板で椅子を作り始め、足には割り箸をセロテープで苦労してつけて出来上ったが、勿論腰をかけたら潰れてしまい、園舎の裏から、4?角、長さ1m80?の角材を持ってきて無造作に切り、釘で打ち付けて仕上げたが、脚の長さがバラバラ。長い方を切ると又片方が長い、何回も脚を切るが揃わないことに気付き釘抜きで全部の釘をとり、長さを揃えて線をひき、あらためて鋸で切って四本の足を打ちつけて、出来上がったのは、やり始めて実に8時間後であった。ジャンパーを脱ぎ、セーターも脱ぎ、それでも汗びっしょり、1月の大寒の最中であった。
「先生、ぼくね、いっぱあーい失敗したでしょ、だからできた時、こんなにうれしいんだよね」
 カツミ君の爽やかなこの言葉を私は生涯忘れることはない。
 
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[ 第3回 ]「けんか」
 まさのぶくんは、見るからに頼もしい感じのする男の子でした。体は大きいし、頭もいい、性格もおっとりした子……のはずでした。ところが、いつの間にか保育園随一のけんか大将になってしまっていたのです。なにかにつけて、すぐ友だちをなぐる、ける、ひっかく、かみつく、砂をかけるというありさま。体の大きな力のある子がやることなので、そのたびに被害は甚大。やられた子はたいてい大泣きしなければなりませんでした。
 いつの間にが、そのことがお母さんたちの間にも知れ渡り、「まさのぶくんとは遊ばないように」と、子どもたちに言い含めるようになってしまったのです。まさのぶくんのお母さんも肩見が狭い思いなのか、お迎えにきても他のお母さんたちには、ろくに挨拶もせず、そそくさと連れ帰るような状態だったのです。孤立したまさのぶくんは、ますます粗暴な振る舞いが多くなっていきました。
 ある日のこと、私がふと園庭を見ると、また、まさのぶくんがけんかを始めています。ブランコのそばで、相手は十二、三人もいるでしょうか。私はしばらく様子を見ることにしました。まさのぶくんが、やにわに砂をつかんで、みんなのほうにパツとなげる。と、遠くにいる保母に向かって告げ口する子がいるのです。
「せんせーい、まさのぶちゃんがまたけんかしてる」
すると保母は、遠くから声をかけます。
「まさのぶちゃーん、やめなさい」
 まさのぶくんは、ふくれっ面をしたまま、それでも砂をなげるのはやめて、ブランコをこぎはじめました。ところが、数分もたたないうちに、またブランコを飛び降りたまさのぶちゃんは、十二、三人めがけて砂をなげたのです。「せんせーい」と、またいいつける友だち。「やめなさーい」と怒鳴る保母……まったく同じことのくり返し。そして、いっこうにけんかは終わりそうにないではありませんか。
 わたしは園庭に出ると、その一団の子どもたちを職員員室に呼び入れました。
「いまのこと、はじめから先生に話してちょうだい」
すると、まさのぶくんとやりあっていたひとりの男の子が、ロをとがらせて、わけを話しはじめたのです。
「まさのぶくんが、ふみこちゃんに石をぶつけたんた。ホラ、おでこが赤くなっているでしょ。たから、ボクたちが注意したら、ボクたちにも砂をかけたんだ」
「ちがうよ!最初がちがうよ!」
そのとき、まさのぶくんがつっかかるような勢いで叫んだのです。興奮で、まっ赤なほほが、ふくらんでいます。
 「ボク、ひとりでブランコに乗ってたんた。そしたら、あきおちゃんたちがきて、話かけたから、ブランコ降りて、ブランコの綱をもって話ていたんた。そしたら、ふみこちゃんがきて『のせて』って、言うから、ダメっていったのに、ブランコ乗っちゃったんだ。ボクは『ブランコかえして』って三回言ったけど、降りてくれないから、石投げたんだ」
せきこんで言葉をつぐまさのぶくんが話し終わらないうちにワッと泣き出したのは、なんとふみこちゃんだったのです。
「あたしがいけなかったの。だってまさのぶくんがイヤッて言うのに、降りてって何回も言ったのに、降りなかったから」
そういってしゃくりあげるふみこちやんを、十三人の友だちはびっくりして見つめていました。
 そこで、私はあらためて尋ねてみたのです。
「みんな、まさのぶくんがほんとうに悪いと思う?」
子どもたちはいっせいに頭をふって
「ううん、悪くない」「いつもは悪いと思ってたけど、今日聞いたら悪くない」
などと、ロぐちに答えたのです。私はもうひとつ、尋ねてみました。
「みんながもしまさのぶちゃんたったら、どうしたと思う?」
いろんな意見が出てきました。
「ブランコにのったばかりだったから、話が終わったらまた乗っていいと思う」
[少ししか乗ってなくても、一度降りたら、ほかの友だちに貸さなければいけないと思う」
「降りて綱をもっているのはズルイ」
「でも、まさのぶくんはみんながイヌのこと(まさのぶくんが拾って来た捨てイヌのこと)を話かけて、しかたなく降りたんたから、また乗ってもいいとおもう」
「でも、ふみこちゃんに石をぶつけたのはよくない」
「そうだ、そうだ」
「でも、まさのぶくんのこと、よーくきいたらあんまり悪くない」
「ボクもそう思った。ごめんね、まさのぶくん」
「ごめんね、ごめんね」
そのとき、ふみこちゃんがまた泣き出して、
「あたしが悪るかったの……ごめんね」
いつの間にかみんなが涙声になっていました。
 そして、まさのぶくんが、のどの奥から声をふりしぼるようにして、こういったのです。
「ボクね……ずっと前から保育園に来てる……けど……今日だけが楽しかったよー」
あとは激しく泣きじゃくる姿に、私まで涙を押さえることができませんでした。「悪い子」というレッテルをはられた、この子がいままで、どんなにさびしい思いをしてきたか。みんなの理解を得られたいま、どんなに胸を熱くしているか。ひしひしと感じられたからです。声をふるわして泣きあっているこの子たちすべてを、抱きしめてやりたいと思いました。
 この日を境に、まさのよぐんはガラリと変わりました。ピタッとけんかがやんだのです。クラスのみんなと協力することもできるようになり、持ちまえの良い素質をぞんぶんに発揮して、クラスの中心になってくれました。
 まわりの友だちや、そのお母さんたちの見る目が変わったことが、まさのぶくんを変えてくれたのでした。
 
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[ 第4回 ]「けんか その2」
 けんか両成敗などといいますが、幼児のけんかを裁くのは本当にむずかしいことだと、いつも思います。いや、どちらが良い悪いとか、理非を正すとか、裁くとか……そういうことでは、幼児のけんかの全体像はつかめないのではないでしょうか。幼児のものの考え方、生活のしかたそのものが、けんかの中に投影されているのですから。
 むしろ、大人は子どもたちの言い分を整理する役にとどまること。解決法を探すのは子どもたちにまかせること。それが、けんかを成長させてやる方法であると、私は思います。

 ある日、女の子同士のすさまじい、とっくみあいが起こりました。きよえちゃんが補助なし自転車に乗って、いい気分で園庭を回っていました。すると、ジャングルジムの下で色水屋さんごっこをやっている仲間たちがいました。
 「あら、なんの色水なの?見せて」
きよえちゃんは自転車を乗り捨てると、色水屋さんの中に入っていったのです。ちょうど園庭の片隅には、オシロイバナの咲き乱れている季節で、色水屋さんたちは濃淡の美しい紅色の水を小さな入れ物にせっせと作っているのでした。しばらくその作業に見入り、自分も手伝ったりしていた、きよえちゃんが、ふと思い出してうしろを振り返ると、あらあら、自転車がなくなっていたのです。
 「たいへん、自転車がない!」
ジャングルジムをとび出して、グルリと園庭をながめると……なんとくみこちゃんが気持ちよさそうに自転車に乗っているんです。
 「こらっ、くみこちゃん。それ、あたしの自転車よ。返して」
 「だって、捨ててあったじゃない。だれも乗っていないからあたしが乗ったのよ」
 「あたしはちょっと降りていただけよ」
 「でも、そんなことわからないもの」
 「返して!」
 「いや!」
ふたりはロからつばを飛ばして怒鳴り合っていましたが、やにわに手をのばすと、たがいの髪の毛をつかんでひっぱったり、たたいたり。砂ぼこりの舞い上がるほど、ものすごい争いになったのです。

 若い保母がとび出していって、やっとふたりをひきはなし、わけを聞きはじめました。が、ふたりはますます興奮して「かえして!」「ダメ!」と意地になってののしりあうばかり。そこでわたしは、ふたりの周囲に集まってきていた子どもたちに意見を聞いてみたのです。
 「ねえ、みんな。きよえちゃんはちょっとだけ自転車をおりたつもりだったんだって。でもくみこちゃんは、きよえちゃんの自転車だと気がつかなかったのね。両方ともいい分があるから困っちゃうね。こんなとき、どうしたら、けんかしないでうまくいくと思う?」
すると、ひとりの子がいいました。
 「きよえちゃん、みはりをつけとけばよかったのに」
その意見にみんなが「そうだそうだ」とうなづきます。当のふたりも、耳をすましているじゃありませんか。わたしはなお尋ねました。
 「じゃ、だれか見張りしてって頼まれたら、見張りになってあげる?」
 「うん、いいよ」と子どもたち。

 たしかに子どもたちの生活を見ていると、見張り番という役割があるものです。だれかに頼まれて、あるものを見張っている。ほかの子が持っていってしまおうとすると
「ダメ、それは○○ちゃんのだよ、ボク、みはり」なんていってる。
大人の目からするとまったく滑稽なのですが、子どもの世界には、こんな所有権の確立のしかたもあるのです。きよえちゃんの自転車にも、この見張りをつけておけばよかったのに……という意見は、まったく私たちの気づかない名案でした。
 「きよえちゃん。みんなが、見張りしてあげるっていってるよ。この次からは、そうしたらどう?」
というと、「うん」とすなおにうなずいて、きよえちゃんもくみ子ちゃんも万事解決のほほえみを交わしたのでした。

 子どもたちが散っていったあと、さっきの保母がつくづくいいました。
 「本吉先生。わたしがうまく裁けなかったわけ、わかったわ。わたしは最初から、きよえちゃんが悪いという先入観が頭の中にあったんです。だから、どんなに公平に裁こうとしても、あの子たち納得しなかったのね」
 そのことばを聞いて、わたしも無意識のうちにやっていたことを、あらためて意識にのぼらせたのです。それは、けんかを解決するときには絶対的に両方の子どもを信じていてやらなければならないということ。
「この先生は、必ず自分のことを見ていてくれる」という安心感がなければ、子どもは決して本音を吐かないし、こちらのいうことに納得もしないのですから。 ことに、しょっちゅうけんかざたを起こす子どもには、 必ず心の中にさびしいものがひそんでいるのです。
 「愛されていない」「正当に評価されていない」と思うことが、いじわるな行動をひき起こす。 そのために「悪い子」というレッテルをはられ、ますます彼の不満を拡大して いく……その悪循環に気づかないおとなが多すぎるのではないでしょうか。
 子どもをとことん信じてやること。そして自信を出させるような方向へと指導してやること。 けんかの指導も、この基本につきると思うのです。
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[ 第5回 ]「子供の姿はおとなの鏡 環境が作り出す価値観」
 散歩に行った時、Mちゃんが、うっかりドブの中に片足をつっこんでしまいました。 保母がMちゃんのクツを脱がせてふいてやっているのを見て、Tくんは言いました。
 「ねえ、早く行こうよ。そんなのいいじゃないか!」
 Mちゃんがかわいそうにと思って見ていた子どもたちは、Tくんの言葉にびっくりしています。 わたしも怒るというよりもむしろ悲しみが吹きあげてきたのでした。
 運動会でスタートラインに並んだN子ちゃん。「ヨーイ・ドン」とビストルが嗚ったとたん、 隣りのKくんの胸のあたりに腕をぐっと伸ばして妨害しておいてから、白分が走り出したのでした。
 足の遅いAくんと同じ赤組になったSくん。ボール競争に負けるとAくんにつめよるのでした。
「おいAくん! おまえのせいだぞ。どうしてくれるんだ!」

 こうした子どもたちを、どう扱ったらよいのでしょうか。「そんなこといったらかわいそうでしょ。あやまりなさい」とか、「N子ちゃんのやったことどう思う?」 とクラスの子どもたちに聞き「いけないことだ」とみんなに言わせる。−そんな言葉だけで、本物のやさしさや正義感、 倫理観といったものが育つのでしょうか。わたしはとても疑問だと思うのです。
 これまで扱ってきた子どもたちを見てますと、子どもたちの価値観や倫理観といったものは、子どもがひとりで築いたものではなく、 両親とのふれ合いや、それまでの生育歴などの環境条件に大きく左右されていることがわかります。
 また保育園の場合は、子どもの起きている大半の時間をここで過ごすことになるので、保育者の影響も見のがせないものがあります。 つまり、ひとりひとりの子どもが良い価値観を持って成長していくためには、親はもちろんのこと、 わたしたち保育肴も含めた周囲のおとなたちが真剣に生きていなければいけないということなのです。
 子どもたちの判断は自己中心的、断片的、結果論的になりやすいものです。けんかを見ていればわかるのですが、 ことの発端や経過は無視して、泣いているほうに味方したり、好きな友だちを助けたりしている。そこのところをよく見きわめて 、わたしたちおとながうまく導いてやらなければなりません。
 わたしたち保育者はどんな小さなできごとも見のがさずに、あるときは感動し、あるときは激怒し、またあるときは、ほのぼのとした 心あたたまる子どもの行為を讃えたりすることによって、子どもたちに無言のうちに価値観を教えていかなければならないのでしょう。
 つまり、子どものかたわらにいるわたしたちおとなの生き方が、知らず知らずのうちに子どもたちの価値観を育てているのです。 おとなの価値観は、そのまますぐに子どもたちの中にしみこんでいくものです。子どもたちを叱るまえに、われわれおとなたちが、 自分の生き方をふり返ってみる必要がありそうです。
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[ 第6回 ]「体験こそ一番の教師 チャンスをのがさずに!」
 ただ絵本を見ているだけでも、子どもたちはいろいろな発見をしています。
 「あれ、この鳥だけ大きいや。」
このチャンスを逃さず、子どもたちと一緒になって考えてみます。
 「どうしてだろう。」
 「だって、このフクロウは一番前にいるからさ。」
 「近くだからでしょ。」
それでは外に出て、近くのものは、ほんとうに大きく見えるかどうか、確かめてみようということになります。
 「あっ、先生、本当だ。あんなに小さく見えた車が、近くにきたら、うわー、本当の大きさだ。」
 「あの遠くの建物、窓があんなに小さく見えるね。」
子どもたちは、ここで遠近と大きさの関係を知るのです。

 あるとき、食事の済んだ子どもたちが、ヒマワリの花の種とりをしていました。三人でやっているのを見て、S君が言います。
 「けんちゃんのが、一番多い。」
 「どうしてけんちゃんのが多いってわかるの。」
 「だって、けんちやんは、いつも一番に、ご飯食べ終わるもん。今日も、種 とりを始めたの一番だったから、一番多いに決まってる。」
変な論理です。このままでは大変。
そこで私も、大急ぎで食事を済ませ、六番目くらいに種とりに加わりました。そして猛烈なスピードでたくさんの種をとったのです。
 「どお、先生のとった種。」
 「うわー、一番多いや。」
 「でも変ね、先生は六番目に始めたのよ。一番はけんちやんだったはずね。」
 「そうだ、種の数、数えればいいんだよ。」
数えるのがまた大変。一つずつ並べているもの、十ずつの山にしているもの。それでもこうしているうちに一対一の対応の法則や集合などの理屈が、本物として、しっかりと身についていくのです。

 チャンスを逃さず適切な働きかけを行ない、しかも子どもたちに食い入るような眼差しを向けさせ、子どもの心の中にしっかりと受けとめてもらえるような、ピリッとした注入の仕方をしたいものです。

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[ 第7回 ]「おねしょ」
 おねしょをする子どもは、感受性の豊かな優しい子どもです。そして、自分を押さえ我慢をします。欲求を親に訴えられないのです。妹や弟がいるのも共通点として多いようですし、甘えが足りていません。

 おねしょの相談に来られた、Y子のお母様に「もっともっとY子ちゃんを可愛がってあげて下さい」と話したところ、「あのう、お言葉を返すようですが、私も夫もY子の祖父母も、家族全員とてもY子を可愛がっております。皆、子ども好きですが…」「それでも愛情が足りないんです。自己発揮が出来ていません。もっともっとスキンシップで可愛がって下さい。今の何倍も抱きしめてあげて下さい。」
 Y子のお母様は、不満のようでした。家族も「そんな講師の話は聞くな。うちで愛情が足りないなら世界中の子どもが愛情が足りない」と言ったようです。それでもY子のお母様は、今日だけでもやってみようと思い、抱きしめて可愛がりました。言われた通りやったことは、朝起きた時から抱きしめ、着替えをしてあげ、抱っこして洗面所へ、もう六歳ですが、抱いて食べさせてあげ、顔をふいてあげて、幼稚園にもおんぶで行きました。帰ってからも、ぎゅーっと抱きしめ、お風呂も一緒に二人だけ(いつもは妹も一緒)で入り、髪も抱いて洗ってあげたのです。すると、いつもは頼んでも、「重い」とか「出来ない」、と言ってやらないお風呂の蓋を鼻歌を歌いながらしているのです。そしてお風呂から出ると絵本を持ってお父様のところに行って「本読んで」と頼みました。

 子ども大好きのお父様は、読んでいた新聞をおいてY子をあぐらの中に入れて絵本を読み聞かせました。そこに三歳の妹M子が自分も絵本を持って「読んで」と来て、ひざの中にするりと乗ろうとし、やさしいY子もいつものように、ひざから降りて妹にゆずろうとしたのです。お父様も当然のようにM子を抱こうとしたのです。
 その時「これだ!!」とはっと気付いたお父様は「M子ちゃんは待ちなさい。今はお姉ちゃん…」と話したのです。M子はワァーッと泣き、Y子は思いがけない事の成り行きに驚き、妹が生まれて、初めて父親を独占。言葉では言えないような喜びだったのです。
 この晩から、おねしょもぴたりととまり、グズグズした行動も嘘のように、生き生きとし始めたのです。原因が甘えの不足、自分を出せない、我慢してしまう…というようなことを、親が気付かずにいると小学生になっても続きます。

 お医者様の立場から「ホルモンのバランスが悪い」と診断されたお母様も、半信半疑ながら、下の子を放ってお兄ちゃんを抱きしめて甘えさせた結果、その晩からピタリとおねしょがとまり、講演会の翌朝わざわざ報せに来て下さいました。十歳まで毎晩、多い時は一晩に三回もおねしょをしていたのです。
 下の子どもに気兼ねや遠慮をしたり、お母さんの気持ちの中に「もう…こんなに大きくなって…」とか「こんなに添い寝もしてあげているのにどうして!」というような気配があると子どもは敏感に察知します。それよりも、「今まで一生懸命育てて可愛がってきたつもりだったけれど、我慢させてしまったのね。いいお兄ちゃん、させていた。ごめんなさいね。お母さんいっぱいいっぱい抱いてあげる!」と率直にお子さんに気付かなかったことを伝えて下さる方がよいと思います。
 弟や妹ができて自分を主張することをあきらめ、精一杯よい子を続けている子どもにとってお母さんの方から「さあいらっしゃい、お母さん抱きしめてあげたいの、甘えてもらいたいの」と手をさしのべてられることは、特効薬になります。

 おねしょ、爪かみ、チック症、指しゃぶり、行動がのろい、気分転換がしにくい、他人の邪魔をする・・、子どもの“さびしい、さびしい、お母さんこっち向いて”のシグナルを受け止め、しっかり抱きしめて下さい。
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[ 本吉 圓子先生のご紹介]

大妻女子大学・聖心女子大学講師
生活保育内容研究会代表
多年にわたる保育現場での豊富な実践や経験をもとに講演会や
研究会、保育雑誌上等で活躍中。著書「私の生活保育論」他多数。